映画『幕が上がる』を観て

人と人とのつながりこそが、人生の幕を上げる
~日常知としての社会学

土井隆義先生 筑波大学人文社会系/社会学専攻

弱いつながりの強さ ~幸せを高める財産

(C)2015 O.H・K/F・T・R・D・K・P ■配給:ティ・ジョイ/配給協力:東映  ※DVDは2015年8月発売
(C)2015 O.H・K/F・T・R・D・K・P ■配給:ティ・ジョイ/配給協力:東映  ※DVDは2015年8月発売

人気アイドルグループ「ももいろクローバーZ」の主演で話題となった青春映画『幕が上がる』には、様々な人たちの様々な出会いの場面が登場します。高校の演劇部という舞台を借りてはいますが、実は他者との出会いの豊かさを描いた作品といってもよいくらいです。しかも、その出会いの多くは、本人たちが望んだとは必ずしも言えないものです。しかしだからこそ、その出会いが登場人物たちの人生に大きな影響を及ぼしていくことになるのです。


近年、世間でも広く注目を集めている社会学の用語に、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)という概念があります。人と人とのつながりこそが、私たちの幸福を高めるための財産なのだという考え方です。モノの豊かさだけでは、人は幸せになれない。人とのつながりこそが大切なのだ。そう言われても、そんなことは当たり前のことだろうと思われるかもしれません。しかし、おそらくみなさんがそこでイメージするのは、例えば絆のように強固なつながりでしょう。


強い絆はたしかに大切なものに違いありません。この映画の中でも、演劇部員たちの強い絆がたっぷりと描かれています。しかしそれと同時に、この映画の中では、見知らぬ新しい他者との魅力的な出会いもまたしっかりと描かれています。社会学では、前者のつながりを結束型、後者のつながりを架橋型と呼んでいます。そして、現代のように変化の激しい社会においては、後者のつながりの比重が高まっていくと考えられています。


アメリカの社会学者、M・グラノベッターが書いた「弱いつながりの強さ」という有名な論文があります。つねに外部へと開かれた緩やかなつながりこそが、人びとが幸福になるには大切なものなのだと、具体的なデータで実証しながら説いた論文です。このような観点からこの映画を眺めてみると、いわゆるイツメンとのつながりだけにとらわれず、そんな予定調和の関係を超えて、もっともっと多様なつながりを築いていくことが、高校生活を豊かなものにしていく上でも重要なのだと気づかされるに違いありません。

望まなかった出会いが変化を起こす

映画『幕が上がる』より
映画『幕が上がる』より

映画の前半部には、演劇部の生徒たちが新任の吉岡先生と出会う印象的なシーンがあります。学生時代に演劇をやっていたという吉岡先生の経歴を知らない生徒たちは、いきなりやってきた彼女をうさん臭そうな目で見つめます。演劇部の活動にアドバイスしようとする吉岡先生に、演劇部の部長である主人公のさおりは、「だったら先生がやって見せてよっ!」と食ってかかります。しかし、この葛藤に満ちたやりとりがあったからこそ、吉岡先生は思いもかけない別人として、生徒たちの前に現われることになるのです。


さおりの言葉を借りるなら、生徒たちの面前で突然、「役者の神様へと姿をかえた」吉岡先生は、やがて乞われて演劇部の副顧問となり、その後の部活動の流れを、そして部員たちの人生を、予想だにしなかった方向へと変えていくことになります。いいえ、変えられていったのは生徒たちだけではありません。生徒たちのひたむきな姿に触発された吉岡先生自身も、やがて教師の職を辞し、いったん諦めていた役者の道を再び志すことになります。彼女の人生もまた、180度といってもよいほど大きく転回していくことになるのです。


演劇部の中では看板女優としてお姫様キャラだったユッコと、そこへ転校生としてやってきた中西さんとの出会いも同様でしょう。演劇部の強豪として知られる高校から転校してきた元演劇部員の中西さんは、ユッコにとって自分とキャラが被りそうな危険な存在でした。親友であるさおりとの関係にも、へたをするとひびを入れられてしまいそうな手ごわい相手と映っていました。だから彼女は、中西さんに対してずっとよそよそしい態度をとり続けます。しかし、そんな相容れない二人だったからこそ、共演相手として組まざるをえなくなったことを契機に、凝り固まった過去のキャラを互いに打ち破り、互いが持っていないものをそれぞれの中に見出していくことになるのです。


夏休みのうだるような暑さの中、校舎の屋上で芝居の小道具を作りながら、ふと二人が言葉を交わすシーンがとても印象的です。「私たち、どっちも何かが欠けてるから、人として」「あはは、よく言うよ」。この会話を契機に、それまで疎遠だった二人が、互いを積極的に認めあうように近づいていくのですが、そのきっかけとなった演劇の台本を書いた部長のさおりもまた、けっして自らが望んだわけではなく、周囲の生徒や先生から押しつけられるようにして演出担当となったのでした。

私たちはみな「何かが欠けてる」存在

こうして登場人物たちの誰しもが、まったく意図しなかった出会いの中で、まったく意図しなかった方向へと人生の歯車を進めていきます。夏の夜空にまたたく星々の下で、演劇部への入部をしぶる中西さんに、「私たちと一緒にまた演劇をやろうよ!」と、さおりが詰め寄るシーンがあります。その積極的な態度にもっとも驚いたのは、ほかならぬさおり自身でした。「演劇のおかげで、私がこんなに話せてる…」と、思いもかけない自分を発見したからです。このように予定調和を超えた世界の中で、だんだんと輝きを強めていく登場人物たちの姿こそが、この映画の醍醐味といってもよいでしょう。


予定調和を超えた世界の中で、歩みを進める登場人物たちが輝いて見えるのは、ユッコの言葉にもあったように、私たち人間がみな「何かが欠けてる」存在だからです。だから、それを補完してくれる異質な他者との出会いの中で、自分自身の内に秘められた意外な可能性の発見へと導かれていくのです。そして、そんな異質な他者と出会うことができるのも、それが予定調和のように意図されたものではないからです。あらかじめ意図された出会いだけでは、いくら積み上げても自分の知っている自分の枠から抜け出すことはできません。つねに自分の鏡像と出会い続けているようなものだからです。


ここで思い出すのは、吉野弘さんの「生命は」という詩です。この詩は、こんな一節から始まります。「生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい/花も/めしべとおしべが揃っているだけでは/不充分で/虫や風が訪れて/めしべとおしべを仲立ちする/生命はすべて/そのなかに欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」と。ときどき学校の教科書にも取り上げられることのある詩なので、みなさんもどこかで目にしたことがあるかもしれません。


この詩にあるように、どんなに美しい花も自らの力だけでは子孫を残すことができません。その意味で「何かが欠けている」のです。その欠如を埋めてくれる虫がやってきてくれることで、初めて自分の子孫を残すことができます。同様のことは、私たちの自己形成についてもいえます。だから社会学では、人間を社会的存在として捉えます。私たちは、他者との関わりの中で言葉を学び、その言葉を使って自分の姿かたちを作り上げていくのです。


花と虫の仲立ちをしてくれるのは風です。風によって運ばれた蜜の甘い香りが、虫を花へと導いてくれます。「幕が上がる」の中で、この仲立ちの役割を果たしているのは、いうまでもなく演劇でしょう。「演劇のおかげで、私がこんなに話せてる…」と、さおりも意外な自分に驚いたように、演劇という共通の風に吹かれていたからこそ、さおりだけでなくユッコも、中西さんも、そしてその他の部員たちも、多少は異質に見える相手とであっても、思いきってつながってみようという気持ちになれたのではないでしょうか。



自分がどんな存在か他者を通じて知る

フランスの哲学者であり、劇作家であるJ・P・サルトルが書いた戯曲の一つに、『出口なし』という有名な作品があります。かつては日本の高校演劇でもしばしば取り上げられることのあった短編です。生前に悪事を働いたために地獄へと送られることになった死者三人が、出口のない狭い密室に閉じ込められて、終わりの見えない時間をともに過ごします。しかも、その部屋にはいっさい鏡がないため、三人とも自分で自分の姿を見ることができません。面前にいる二人から投げかけられる言葉によってしか、互いに自分の姿を知ることができないのです。そこにどんな事態が待っているのかは、もう推して知るべしでしょう。


登場人物の一人、イネスはこう呟きます。「もう誰も来る者はいない、誰一人として。私たちは、最後まで一緒にいるのだ。私たちの一人一人が、残りの二人にとって鬼なのだ」と。もう一人の死者、エステルもこう嘆きます。自分の生前に「鏡に映った私の影は私になついていた。でもここで私が笑ったら、その笑いがあなたの瞳の奥へ入っていって、それからいったいどうなるのかわからない」と。そして劇の終盤では、さらにもう一人の死者であるガルサンがこう叫ぶのです。「地獄とは、他者のことなのだ!」と。


社会的存在として生きる私たち人間は、自分に向けられた他者の態度を通してしか、自分がどんな人間であるかを知ることができません。ちょうど鏡の像を通してしか自分の容貌を見ることができないように。社会学では、この比喩を使った「鏡に映った自己」という概念で、この自己認識の仕組みを説明します。私たち人間は、他者の態度という鏡を見つめながら自己イメージを作り上げていくのです。


では、そこにもし新しい他者との出会いがまったくありえないとしたらどうでしょうか。その世界で見えるのは、過去の自分の姿だけです。それに呪縛され、未来の可能性がまったく見えない閉塞した自分の姿です。閉塞した人間関係は、閉塞した未来しか私たちにもたらしません。サルトルは、そんな「出口なし」の人間関係を地獄と形容したのでした。このエッセイの冒頭で、グラノベッターの論文を引用して、弱いつながりこそが強いと述べた理由もここにあります。


私たちが幸せになるためには、結束型のつながりも確かに大切です。しかし、そこには閉鎖的になりがちな性質があることにも注意しなければなりません。とりあえず現状を維持していくためには有効かもしれませんが、あまり未来志向的とは言いがたく、逆にしがらみの地獄と化してしまうこともあります。だから、その隘路を克服し、閉じた人間関係からの出口を設けるために、架橋型のつながりもまた同時に築いていかなければならないのです。

 

仲間の意外な面を見つければ、それもまた出会い

映画『幕が上がる』より
映画『幕が上がる』より

『幕が上がる』の中で繰り広げられる劇中劇の台詞のように、みなさんの誰しもが、どこまでも行ける人生の切符を持っています。この映画で主役を務めた「ももクロ」のメンバーたちも、出演を企画した映画監督の本広克行さんと出会い、原作者で演出家の平田オリザさんと出会うことで、それまでのアイドルの殻を破り、女優として大きく羽ばたきました。ストーリーの順番に撮影されたというこの映画では、彼女たちのその成長ぶりを眺められることも、またもう一つの醍醐味といえます。


しかし、私たちが生きているこの世界は、これもまた劇中劇の台詞のように、実はそれ以上に早いスピードでどんどん広がっています。そんな無限の広がりを持ったこの世界で、自分がまったく見知らぬ他者と出会うためには、何か好きになれるもの、一心不乱に没頭できるものも、また同時に見つけていく必要があります。この映画では、演劇への情熱がその役割を担っていました。また、出演した「ももクロ」にとっては、映画への情熱がその役割を担っていました。その共通の思い入れこそが、意図しない異質な他者との出会いを呼び込む風となってくれていたのです。


この映画のように、異質な他者との出会いにとって、演劇という仕組みがとても有効なのは、間違いのない事実でしょう。演劇の中では、なにしろリアルな自分ではない別の自分を演ずることができるのですから。しかし、自分が熱中できる対象でありさえすれば、その共通の風は、必ずしも演劇でなくてもよいのです。人間関係を築くことを目的とせず、何かを実現させるために人間関係を築くこと。なにやら逆説的に聞こえるかもしれませんが、社会関係資本という考え方は、実はそれこそが豊かな人間関係を築いていくためのコツなのだということを教えてくれます。


ひとつだけ付け加えておくなら、見知らぬ新しい他者とは、まだ出会ったことのない相手だけに限りません。すでによく見知った仲間であっても、私たちは相手のことをよく知っているようで、実は意外と知らない面があったりするものです。この映画のなかでも、下級生の明美ちゃんが次期部長に押されることで大きく変貌したように、互いに既成のキャラにとらわれることなく、相手の中に意外な面を見つけることができれば、それもまた新しい他者との出会いといえるのです。


この映画をご覧になったみなさんにも、それと同じことがいえます。最初はアイドル映画を観るつもりで映画館へ足を運んだ「モノノフ」さんたちは、当初は予想だにしなかった女優としての「ももクロ」の姿を、おそらくスクリーンの中に見つけられたのではないでしょうか。さあ、今度はみなさん自身の番です。いますぐにでも、人生という舞台の幕を上げてください。見知らぬ他者と出会い、見知らぬ自分と出会うために。そして、無限の広がりを持ったこの世界の中で、しかし時間の限られた高校生活を豊かなものとするために。

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