自分らしく生きて、社会を変える

10年後のじぶん・しゃかい~ポスト3・11の『若者たちの神々』

第1回

安田祐輔 NPO法人キズキ理事長

「つまづいても必ずやり直すことができる」と信じられる場所を作る  ~不登校・高校中退の若者のための大学受験塾を主催


【プロフィール】

やすだゆうすけ。1983年神奈川県横浜市生まれ。ICU(国際基督教大学)教養学部国際関係学科卒。在学中にイスラエル・パレスチナで平和構築関連のNGOに携わり、一時大学を休学しルーマニアの研究機関に勤務。主に紛争解決に向けたワークショップのコーディネートなどを行う。卒業後は商社に勤務した後、NPO法人キズキを立ち上げ、現在同理事長。代々木で不登校・高校中退経験者を対象とした大学受験塾の運営、大手専門学校グループと提携した中退予防事業などを行なっている。

メインの事業である大学受験塾では、不登校、高校中退などの状況にありながらも、「受験を通じて人生をやり直したい」と考えている若者たちに大学受験の指導を行っている。講師もほとんどが不登校・中退経験者で、自信を無くしている若者たちに、やり直しが可能であることを伝えようとしている。

「つまづいても必ずやり直すことができる」と信じられる場所を作る  ~不登校・高校中退の若者のための大学受験塾を主催

※上記の動画を文章でお読みいただくことができます。

(1) ヤンキーだった中学・高校時代、それが高3の時、人生が変わった  

左:安田祐輔氏(NPO法人キズキ理事長) 右:インタビュアー 開沼博氏
左:安田祐輔氏(NPO法人キズキ理事長) 右:インタビュアー 開沼博氏

 

 

開沼:本日は宜しくお願いします。このインタビューですが、今から30年くらい前、80年代半ばに、筑紫哲也さんがやっていた伝説的なインタビューシリーズに『若者たちの神々』というものがあって、辻元清美さんとか、鴻上尚史さん、桑田佳祐さんなんかが20代、30代で出ていたんです。みんな今は50代ですが、まだ第一線で頑張っていて、すばらしい仕事だと思っています。

 

今回、高校生など若い人に向けて似たようなことをやってみようというのがこの企画ですが、中心に据えたい大きなテーマが「10年後の自分、10年後の社会」です。僕の同世代に話を聴いていくということは、今の高校生にとっては10年後の自分の姿を想像するのにちょうどいいのかもしれない。「高校生の自分たち」が「今の自分たち」を見たら、全然想像できない姿になっていると思います。でも決して遠すぎる存在でもない。そんな程よい距離感にいながら頑張っている等身大の姿が浮き彫りになればと思っています。さらに、今回お話しをうかがう方々は、みなさん何かしら人生の転換点を経験している方を選んでいます。日本社会も「失われた20年」や「311」で、ある面で挫折の中にある。じゃあ、挫折した時にどう起き上がるか。答えはなくても、そのヒントが見えたらいいんではないか、と思うんです。

では、まず安田さんの、生い立ちについてお話ししていただけますか?

 

高校中退、アルバイト生活、ヤンキー時代。でも大学に行くしかないのかなと思った。

 

安田:生まれは横浜で、普通の中流家庭に生まれました。僕がこういう事業を始めるきっかけにもなったんですが、幼い頃は両親がけんかばかりしていました。公立の小学校に入学したのですが、父は外に別の家族を作っていたり、母は精神的に不安定になってしまったりして環境がよくなかったので、中学は受験して寮のある千葉県の学校に入りました。しかし、寮が管理主義的でなじめず、中2で中退してしまいました。親と暮らすのが難しかったので、寮を出ると神奈川県の藤沢市にいた祖母の家に預けられ、中3からは公立の中学に通いました。その後、高校はそのまま地元のいわゆる底辺校に入りました。

 

高校に入ると父が再婚したので、一緒に暮らし始めたんですが、新しい家族と合わなくて、家に帰るのが嫌になって、夜は不良仲間とずっと遊んでました。朝帰って、昼起きて…。学校は底辺校なので、出席日数を気にする必要もありませんでした。周りは高校中退して土方とか、トラックの運ちゃんになる人も多かったです。今にして思えば、これが結構自分の人生を考えるきっかけでした。自分はどう生きたいのだろうと。

 

当時はお金がなかったので、とりあえずアルバイトをしていましたが、僕はつまらなくなると何もできなくなるんですよ。3カ月しか続かないんです。だからアルバイトも10種類くらいやりましたね。ファーストフード、レストランの皿洗い、ポスター貼り、寿司屋、ガソリンスタンド、コンビニなどあらゆる業種をやって、「これは厳しいな、このままだと人生が厳しくなっていくな」となんとなく感じていました。当時僕はヤンキー(下っ端ですが(笑))だったのですが、ヤンキーって15歳くらいのヒエラルキーの中ではトップにいると思い込めるんですよ。そして、近くに進学校があったので、「あいつら勉強ばっかして、つまんない奴らだよな」みたいなこと思って絡んでやろうかなとか思ったり、そういう感じだったんです。

 

ただ、18歳、高3くらいの時に社会の潮目みたいなものが変わっていくなということを感じたのです。それまではヒエラルキーのトップにいる気がしていたけれども、高校を出てフリーターになっても未来が見えなくなりそうだった。しかし、就職するには成績も出席日数も全然足りなかった。だから、大学に行くしかないのかな、と思うようになりました。ちょうどその頃9.11があって、アフガンの空爆とか見ていて衝撃を受けました。当時は気付かなかったんですが、僕はそういうものに対する「感受性の揺れ」みたいなものがあって、それは自分の生い立ちと重なっていたと思うんです。もちろん日本もいろいろな社会問題を抱えていたんですが、自分は「当事者」だったので、それになかなか気付けなかったです。そうすると視線は自然と海外に向いて、こういった社会を変えたいなと思うようになりました。紛争のことなどを勉強してそこに住む子どもたちに何かできないかと考えるようになり、18歳の時に本格的に受験勉強を始めました。

 

 

アフガンの空爆を見て、「社会を変えられる人間になりたい」と強く思った

 

開沼:なるほど。安田さんの人生の大きなターニングポイントですね。もう少し具体的な、これがきっかけだったという思い出はありますか?

 

安田:受験勉強を始めるにあたり、僕は、新聞の漢字が読めなかったので、毎日ニュースを見るということを自分で義務付けたんです。まっとうな人間にならなくてはと思っていて、僕の中での「まっとうな人間」って、ニュースと新聞を見ている人だというという勝手なイメージがありました。そこで筑紫哲也さんがメインキャスターをしていた「ニュース23」を毎晩家に帰って見るようにしたんです。その中で、アフガンの空爆で、親を亡くした子どもの話をやっていました。それと対比してアメリカの小学校では子ども達が「アフガン人はみんな死ぬべきだ」みたいなことを平気で言っていて。「こういう社会って何なんだろう」と、「やるならこれだ。社会を変えられる人間になりたい」と強く思うようになりました。高3の12月のことでした。

 

開沼:でも、その時点の安田さんにとって、目標はめちゃくちゃ大きいですよね。正直、どこから手を付けていけばいいのかとか分からなかったでしょう。

   

安田:そうですね。その時、何も知らなかったので、本屋に行って何冊か立ち読みしたら、国連に行くか、学者になれば社会は変えられるということが分かりました。短絡的ですね(笑)。じゃあその二つになるにはどうすればいいのか調べました。すると学者は多くが東大でした。そして国連は、ICUの率がかなり高い。「じゃあこの二つを受ければいい」と思って、この二つしか受けてないんです。

  

開沼:それはとても分かりやすいですね。

 

安田:そして、いままでやんちゃなことをしてきたから、真面目になりたかったんです。勝手なイメージですけど、早稲田とか行ってしまうと飲み会とかでワーワーやってしまうのではないだろうかと思って、慶應もそんな感じなんじゃないかと勝手に思って、それで早慶はやめたんです(笑)。すごい真面目な人たちだけがいる空間にいたいというのがありました。

 

 

受験は2年計画で。絶望的な気持ちにもなったが、自信もついてきた。

 

開沼:とはいえ、手をつけ始めてみれば、受験勉強の道は楽ではないことがわかる。テレビで、「芸能人が1年勉強して難関大学に受かろう」みたいな企画はみたけど、なまはんかな気持ちで乗り越えられるものではないことは、実際に経験した人間であればわかる。「安田祐輔・18歳」からしたら、その目標は立ち向かおうとすればするほど絶望を感じるプロセスじゃなかったですか?

 

安田:そうですね。毎日、受験に落ちる夢ばかり見ていました。小学校の算数は分かっていたので、最初は中1の参考書を買ってきて、何とか6年分やり直さないと、ということで因数分解などから始めました。そしてやっている途中で、1年では無理ということがわかったので、2年計画に変えました。いつまで立っても合格には程遠く、絶望的な気持ちになりました。

 

それでも、ちょっとずつでも勉強が理解できるようになったことで、少しずつ自信もついてきました。最初の模試はもちろん東大全部E判定だったんですが、浪人1年目のセンター前期も後期も、足切りには引っかからなかったのです。後期も足切りは通ったというのは、自分でも驚きました。

 

開沼:おお、それはすごいですね。

   

安田:私大に絞った勉強はしていなかったので、ICUも落ちました。ただ、もう1年やったらいけると思いました。そして浪人2年目のはじめに受けた河合塾の東大模試でB判定が出て、日本史が3位だったんです。初めは毎日1時間2時間の勉強から初め、勉強が習慣化されると、朝起きてから夜までずっと勉強していました。2年間の浪人生活の中で3月と4月はちょっとだらけましたが、2年間毎日1314時間くらいの勉強はキープしていて、1日も休みませんでした。しかし、2年目の秋くらいに気持ちが中だるみし、結局センター試験は失敗してしまいました。私大には合格できるくらいになっていたので、二浪でICUに入学しました。

 

 

努力して何かを成し遂げるのは本当に嬉しい

 

開沼:最初の頃の点数や偏差値はどのくらいだったんですか?

  

安田:高3の時に受けたセンター試験では英語が200中、80点くらい、古文は7! そういうレベルでした。浪人してからは東大模試しか受けなかったので、浪人1年目は全部E判定で、偏差値は3040くらいでした。けれども、一浪目のセンター試験は、英語も190点くらいで国語も8割くらいとれるようになっていて、「やったんだな」という感触はありました。子ども達のアイデンティティって、勉強できるか、運動できるか、女の子にもてるか、が一般的に重要な要素を占めていると思うのですが、僕は運動できるわけでもないし、確かに高校の時、女の子と遊んでいたりはしましたけど…。いつも、どこか自信がなかったんです。2年間の浪人生活の中で、努力して何かを成し遂げて、勉強が出来るようになった、というのは本当に嬉しくて自信になりました。

  

開沼:それは本当にそう。「子どもにとって重要なこと」を無視して「大人の評価軸」を上から押し付けても自信なくしてしまう場合も多いでしょうね。むしろ、そういう外から与えられた評価軸を無批判に、安易に受け入れちゃうほうが問題ある。自分の価値観を自ら見つける力が養われないわけで。そういった点では、勉強に興味持つ前って、漠然といつか勉強をやりたいみたいな思いってあったんですか?子どもにとって勉強ってする意味分かんないし、やりたくないしというところだと思うんですが。

  

安田:両親がどっちも大卒だったのと、弟も、その後東大に行くんですが、頭がよくて、「なんか自分も勉強すれば出来るんじゃないか」という思いはありました。高校時代にバイトを転々とした結果、トラックの運ちゃんになる自分とか、工場で働く自分が想像できないとわかったんです。とはいえ、当時は勉強する意味までは見い出せなかったです。だから今から10年前、浅い発想だったとは思うんですが、国連に行くか、学者になるかということを思えたことはかなり良かったと思います。

 

 

せっぱつまった時に、どれだけ頑張れるか

 

開沼:「ホントは出来るんじゃないか感」って、自分を伸ばす上で重要だと思うんです。ただ、実際にその感覚を持ち続けて「ホントに出来る」ところまで持っていけるか、いけないかというと、8割型の人は出来ないとも思います。安田さんはできた。その違いは何なんですかね?

   

安田:うーん、難しいですね。ただ、人間って頑張らなきゃいけない時があって、その時に頑張れるかだと思うんです。だから、簡単に言うと根性みたいなものでしょうか。せっぱつまった時に、どれだけ頑張れるか。僕は、18歳くらいで地元のコンビニとかで働いていくのは厳しいなと思っていました。ここで失敗するともう後がないので、何とかしないとダメだなとは。

  

開沼:それで毎日1314時間勉強をはじめるわけですが、そうする環境って、どうやって整えたんですか?これまで何もしていなかったのに急に「今日から俺は」と切り替えようと思っても、気持ちだけでは長続きしなくて、色々周囲の環境を整えないと実現できないと思うんですね。ダイエットとか考えると分かりやすいですけど。多分その環境を自分で整えられるかどうかというのが、ポイントだったんだと思います。  

 

安田:やっぱり父の家族と暮らすのは難しかったので、中3の頃に同居していた祖父母に頼みました。むかしの家で部屋が広かったので、そこに住まわせもらって、ずっとこもっていました。周りに邪魔されず、ゲームや漫画もおかず、勉強に集中できる環境を整えました。毎日8時に起きて勉強して、風呂入る時は、濡れても大丈夫な参考書を読んで、歩きながら単語を覚えてた、みたいな感じです。

   

開沼:息抜きみたいなものはしなかったんですか?

   

安田:友達とも2年間誰とも喋ってないんです。だから大学に入った時は、人とうまく話せなかったです。人と話すのは予備校の先生に質問しに行く時ぐらいでしたね。

   

開沼:僕も浪人の時そうでしたよ。「仙人みたいな生活をしてやる」と思い込んで、全く同じ生活ペースで1年間人と喋らず過ごしました(笑)でも、どうして「友達としゃべらない」っていう次元に行けたんですかね。実際、そこまでやると、けっこう志望校に入れると思うんですよ。

 

 

周囲からも、自分でも、自分を認めてあげたかった。欠乏感を糧に頑張っていく。

 

安田:そうなんですよ!何なんですかね(笑)。うちに通ってくる子達は特にそういうのが苦手な子が多くて、モチベーションが保てなかったりとか、精神的に不安定だったりとか。そこはどうしたらいいんだろうと思っています。僕にとって一番大きかったのは、「自分を認められたい」ということだったのかもしれません。僕の場合は親との関係が希薄で、しかも勉強出来ないし、普通に自転車乗っているだけで、2日に1回くらい警察に呼びとめられて、「その自転車盗んでないか」みたいなこと言われてたんですよ。それで、高校で大学に行きたいって周りに言っても「お前じゃ無理だよ」って言われて、誰も自分のことを認めてくれないんですよね。とにかく、周りから認められたかった。それに、自分で自分を認めてあげたかった。自分で努力して何かをつかめば、自分のことを認めてあげられるんじゃないかって思ったんです。

 

開沼:それは僕も分かります。でも、逆に他人から認められている人って自分を変える必要もないし、そういうことがないままの人生でも、そこそこ幸せだと思うんですよ。大学受験だけではないと思うんですが、別にやらなくても全然いいじゃん、という価値観もあると思います。

   

安田:確かに、それはそれでいいと思います。これは受験だけの話ではないんですが、起業する人でも、欠乏感がある人がほとんどだと思うんですよね。孫正義さんの自伝なんかも読んでも、生い立ちの中で何かあって、それを糧にして頑張っていくというのがありますからね。

   

開沼:ただ、仮に欠乏感が一時的に満たされていた時期があったとしても、大人になって欠乏感が満たされている人って多分ほとんどいないのかもしれない。自分の中の欠乏感に向きあってそれを埋めていく、具体的な努力をするということを10代のうちにやれたというのが大きかったんでしょうね。

   

安田:そうですね。あの頃は本当に切羽詰まっていたので。

 

第1回 安田祐輔 NPO法人キズキ理事長

「つまづいても必ずやり直すことができる」と信じられる場所を作る  

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