自分らしく生きて、社会を変える

10年後のじぶん・しゃかい~ポスト3・11の『若者たちの神々』

第2回 

徳田和嘉子 株式会社cross fm 取締役副社長

人生のピークは60歳でいい。大事なのは、「次にどうしていこうか」ということ


【プロフィール】

1983年茨城県生まれ。高校3年までバスケットボール一筋の生活を送っていたが、緒方貞子氏の講演を聞いて感激し、東大へ。在学中に書いた「東大生が教える!超暗記術」(ダイヤモンド社)は14万部を超えるベストセラーになった。卒業前の2007年7月から2008年3月までの8か月で文字通りの世界一周旅行へ。その様子は、ブログ「世界一周~未来のダンナを探しに~」http://www.tokuwakako.com/ で読むことができる。卒業後、外資系の金融機関勤務を経て、現在は福岡のラジオ局cross fmの取締役副社長。

 

 

(1) バスケ命!の高校時代、1枚の応募はがきが人生を変えた

左:インタビューアー 開沼博さん 右:徳田和嘉子さん
左:インタビューアー 開沼博さん 右:徳田和嘉子さん

 

放送業界初の20代・女性トップとして


開沼:本日はありがとうございます。最初に会ったのは、大学2年生の時でしたね。


当時、『ドラゴン桜』が流行りだしていて、「東大生に本を書かせよう」という出版の企画の話がまわってきて、僕もそこでペンネームで本を書いていたんですが、その時、徳田さんも本を書いて、それで知り合ったんですよね。徳田さんの本は確か14万部売れました。10万部越えるというのは、なかなかのベストセラーですよね。

 

徳田:そうですね。「東大生が教える!超暗記術」(ダイヤモンド社)というタイトルで、2006年の3月に出版されて。今でも、受験シーズンになるとちょこちょこ売れていますね。韓国でも発売されたので、韓国の読者からメッセージが来たりします。

 

開沼:おー今でも来るんですか。それはすごい。もう、出版から5年以上たつわけですね。当時はまだ大学生だったわけですが、現在、社会に出た徳田さんが何をしているのかということからうかがえればと思います。 

 

徳田:今は、cross fmという、福岡にあるラジオ局の副社長をしています。私自身は、投資会社で働いていて、投資先のラジオ局へ出向しているという形です。仕事は現場のトップで、経営全般、財務経理、人事等を担当しています。最近は営業にも行きますし、編成といって番組を作る現場にも顔を出しますし、何でも屋ですね。

 

開沼:ラジオ局で働いているっていうと、多くの人にとって外から見えやすいのはラジオパーソナリティとか制作スタッフだったりするわけですが、そうではなく、20代で経営者をしていると。 「ラジオ局の経営者」って何やっているのかって言うことの前に、そもそも「投資会社」って何で、なぜ投資会社で働いている人がラジオ局の副社長になるのかというところから教えてもらえますか。

 

徳田:日本では、少し前まで「産業再生機構」という、政府が出資して作った組織がありました。特に地方の中小企業を再生させるために、経営や財務などのプロフェッショナルが入って、元から会社にいる人たちと一緒になって会社を建て直しましょう、ということをやっていました。それが解散した後に、そこで中心になっていた人たちが集まって作ったのが、私が今いる投資会社です。だから、地方の中小企業の再建、復活をするというのが主な仕事になっています。


なぜラジオ局かと言えば、ちょうど20年前くらいにFM局の設立ブームがあって、主に東京、名古屋、大阪、札幌、福岡の5都市で5局が設立されたのですが、現在ラジオ業界は若者のラジオ離れが進んでいて、今から5年くらい前にはこの5局も含めてほとんどの局が潰れかけたんです。


でも、放送局というのは総務省の免許事業なので、お役所としては潰したくない。投資会社にとっては、免許があるから投資する価値があると判断し、5年前に投資を決定しました。放送会社に投資会社が入って建て直しをするというのは、cross fmが日本ではほぼ初めてのケースだと思います。


最近は、東日本大震災でラジオの重要性が再認識されたので、時期としてはおもしろいかなと思います。あとはネットとの融合をどうしていくか、というのもテーマですね。

 

開沼:いや、ホント、ラジオの緊急時の強さはもちろん、今は携帯電話に「radiko(ラジコ)」みたいなアプリを入れて聞く時代ですからね。新聞と並んで古いメディアではあるけれども、今こそイノベーションが求められているんだろうし、若い感覚を活かす余地もあるんでしょうね。ただ、一般的には、放送局の役員って年配の方が多いイメージがあるわけで、29歳で副社長をやっている例っていうのは日本で他にあるんですか?

 

徳田:全くないです。民放メディアでは。経営のNo.2に女性が入った事自体も、そして20代というのも初めてです。他局の方は、60、70代の方ですので、かなり浮きますね(笑)。専任で担当するようになったのは、今年(2012年)9月からで、ちょうど今3カ月経ちました。ようやく少し落ち着いたところです。

 

進学校でバスケ漬け。そのもとになったのは…

開沼:なるほど。それは、これからますますやりがいがありますね。
そんな、「20代で、しかも女性のラジオ局役員」という異例の立場にある徳田さんですが、どんな経緯で今に至ったのかうかがいたい。高校の時、あるいは、もっと前の子どもの時でもいいですが、どんなことを思って、どんな生活をしていたのかを聞いていきたいと思います。

 

徳田:高校生の時はバスケ一筋でした。一日7時間くらい、土日もずっとやっていましたね。部活の現役時代は、好きなものに対するリスペクトと、「勝つんだ!」という野心で過ごしていました。


進学校なのに自由で、通学も私服で、髪の毛も染めてよかったんです。でも、運動能力がある人はあまりいない。それでも、デコボコなメンバーでひたすら練習したら、地区大会を連覇しました。一生懸命やれば勝てるんだ、ということで自信を得ましたね。2年生の時、先輩の引退試合で当時茨城県で一番だった高校に勝った快感はすごかったです。


私は背が高いので、センター。マンガの『スラムダンク』でいったら「ゴリ」のポジションでした。キャプテンになった時は、チームをいかにまとめて、メンバーの潜在能力を引き出すかということをいつも考えていました。それは本当におもしろかったですね。

 

開沼:相当な時間と体力をつぎ込んだわけですね。とは言え、進学のための勉強もそれなりにしなければならなかったわけですよね。当時、1日の生活スタイルって、ざっくり言うと、どんな感じでしたか?

 

徳田:体育館の鍵を渡されていたので、朝6時過ぎくらいに家を出て、体育館を開けて7時くらいに練習を始めて1時間半くらい。「早弁」して(笑)、昼休み1時間シュート練習して、4時からまた練習を始めて、帰らないといけない時間までやっていました。夜は鍵を閉めて、家へ帰ったら10時、11時でしたね。勉強は、とにかく授業中に集中して聞く。そしてテスト前。あとは土日かな。でも、受験勉強は現役時代は全然できてなくて、落ちて浪人しました。

 

開沼:体力が有り余っていたんですね。中学の時も同じような感じ?

 

徳田:うーん。中学の時は、勉強したという意識は特にないけど、附属(茨城大学教育学部附属中学)だったから、環境はとても良かったんだと思います。学年におもしろい先生がいて、いろいろやりましたね。合唱曲を学年で作るのにみんなから歌詞を募集したり。男の子のエロい詞とかくるんです(笑)。そういうのを、みんなで「こいつアホだね」とか言いながら読んで、上手な子がみんなのいいとこを取って編集したり、音楽のできる子が作曲したりみたいなことをやっていました。


ほかにも、当時のゆとり学習の実験台としていろんなことをやりました。私は、「附属中って変だよね」みたいな感じがあったので、全国の附属中に手紙を出してアンケートを取ったりしていました。

 

開沼:そんなふうに一つのことに熱心に取り組んでいこうとするメンタリティはどうやって培われたんですか?附属校とか進学校にいて、周りの雰囲気がそうさせたという側面があるとしても、みんながみんなそうではないですよね。

 

徳田:当時は思っていなかったけど、小さい時からそういうことが好きなのかな。もともと絵本が好きで、弟妹が沢山いたので、絵本の印象的だったところを、小道具とかを作って全部劇にしていたことを覚えています。


私は4人きょうだいで、私一番上です。子どもが多くて親も手いっぱいだったので、自然に家の中では私が親みたいで、みんなのケアやサポートをすべきだと思っていました。先生についてもそうで、小4くらいで大人は絶対的な存在じゃないことに気がついてしまいました。今思えば、さめていました。

 

転機は突然やってきた 応募はがき→緒方貞子さん→東大へ  

 

開沼:なるほど。そして、高校生の時は、最後までバスケを頑張って3年生で引退して、大学を目指すことになる。その時はどうして大学に、しかも東大に行こうと思ったんですか?

 

徳田:決定的になったのは、高校2年生の時に、緒方貞子さんのことを新聞で読んだことです。当時、国連の難民高等弁務官で70を過ぎた年齢で活躍しておられました。彼女が東京に講演に来るというので、応募はがきを出しまくって、当選して授業をさぼって行ったんです。その講演に非常に感銘を受けました。その時「若い人には勉強して欲しい」と言われたので、これは勉強しなくては、レベルの高いところを目指さなければ、と思いました。そして、バスケを引退後、受験勉強を始めました。

 

開沼:なるほど。しかし、高校生の時に新聞を読んで、そんなに心に刺さったっていうのは驚きですね。その記事のどういう点がよかったんですか?

 

徳田:そうですね、もともと自分を世界のために捧げたくて、もっと世界の広いところを見てみたいと漠然と思っていました。それと、生意気だったので、人がやらないことをやって、特別な存在になりたいとも。高校生という年代で、政治家とかいろいろ調べると、緒方さんがピカイチに輝いていたんです。

 

開沼:確かに、女性であり、世界で高い地位について活躍していましたからね。それで、実際に緒方さんの話しを聞いてみて印象はどうでした?

 

徳田:緒方さんって、壇上で全然笑わないんです。いろんな人が質問するのに、真面目に冷静に答えるんです。愛想がない人だなと思いましたが、正論を言われていることはわかりました。そして、絶対的な信念があるんです。彼女の信念は、人間の安全保障だと。人間が安全であるために、難民という存在は彼らにとっても、地球規模で考えた場合もよくない。彼らみたいな人を、少なくするにはどうすればいいのかという話が、とても印象的でした。

 

開沼:ほー。しかし、それって、普通の高校生に刺さりますかね?僕が高校生だったら難しい話だなってあまり実感が伴わないと思いますが。

 

徳田:うーん。女の子って早熟だし(笑)、私自身は周りの大人への失望感から、絶対的な正義を求めていたんだと思います。


開沼:なるほど。高校生ぐらいになって「絶対的な正義」を求めてしまうという感覚はよくわかります。回りにいる親・教師はじめ、狭い世界にいる大人が提示してくる価値観をただ信じていても先が見えないと言うことを理解し始める中で「これだ」という人や価値観を探し始めるという経験をする人は少なくないでしょう。それで、バスケを引退して、その後に受験勉強を始めたんですね。

 

徳田:6月に引退して、7月からですね。受験勉強を始めた時に、副キャプテンをやっていた友達と私は何としても東大に行きたいという思いがあったんです。それで、彼女と励まし合いながら勉強し、2人とも落ち、浪人して予備校に行ったんです。

 

開沼:同じレベルで励まし合える友人がいたのは良かったですね。ただ、浪人をして、自分を追い込み始めると、それは極めて単調で自分と向き合う戦いでしかない。1年に1回、希望者に対する定員もかなり絞られている受験のシビアさは、社会人が仕事でぶつかる問題のシビアさと比べても決して馬鹿にできるものではない。その経験を10代のうちにしておいたことは、それなりに自分を鍛えることになったと思いますが、浪人の時期が現在においても役立っているっていうことはありますか?

 

徳田:やっぱり「継続は力なり」というありきたりなことが再確認できたかな。それから、気持ちと、思考を切り離すということが大事だと思いました。もちろん、疲れたとか、寝たいとかは誰でも思います。しかし、逆算して本番までに間に合わせないといけないということは、バスケとは違いました。そして、受験勉強は孤独です。勝つぞという気持ちと、冷静な思考を別で扱うことを鍛える期間でした。結局、受験で成功した人は、みんな継続が大切ということがわかっていると思います。いかに継続できる訓練をして、気持ちと思考を切り離すことができるかが成功する鍵になる。

 

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