カメラマンがみた被災地・東北

vol.4 気仙沼グラウンドゼロ・礎

気仙沼港近くに作られたグラウンド・ゼロ
気仙沼港近くに作られたグラウンド・ゼロ

先日、気仙沼の伊藤雄一郎さんのところに行って来ました。

 

このエッセイの1回目で少し紹介させていただいた伊藤さんには、僕が以前、銀座で写真展をさせてもらってたときに、伊藤さんが、同じ建物の中にある気仙沼のアンテナショップの店長をしていたことで知り合いました。

 

アンテナショップがその役目を終えて閉店となり、気仙沼に戻ったあとも、その付き合いは続いています。

 

2011年春、伊藤さんは、毎日のように、気仙沼の街を弟さんを探して歩きまわりました。伊藤さんの弟さんは、あの津波の時から行方がわからなくなっていました。当時の気仙沼では、捜索はまだまだ進んでおらず、自衛隊や消防に頼るだけではなく、自分たちで捜さなければならなかったのです。街をしらみつぶしに捜してまわり、避難所をまわり、ご遺体の安置所にも行き、一人一人確認をする。

 

気仙沼港から100mも離れていない場所にあった伊藤さんの実家は、津波の打撃をもろに受け、コンクリートの基礎部分を残し、すべて持って行かれてしまいました。お母さんが美容院をしてた実家。夜はライトアップされ、家の前には噴水もある自慢の建物でした。


自分たちが築きあげた努力の象徴である家を津波に持って行かれ、目の前に残るのは、瓦礫にまみれたコンクリートの基礎だけ。伊藤さんは、その無惨な姿を人に見られるのがなによりもつらかったといいます。

 

なにかをしなくてはならない。それがなんでるあるかはまだわからない。

 

しかし、伊藤さんは行動に出ました。まだまだ住む場所もままならない混乱の時期であるにも関わらず、借金までして、資材を購入。自宅跡地にトラック5台分の盛り土をして、小さな丘を作りました。そして、気仙沼中に散乱していた漁業に使うガラスの浮き玉を集めてまわり、花を植え、2時46分で止まったままの時計を置き、ピアノを置き、そこを『気仙沼グラウンド・ゼロ』と名付けました。

 

気仙沼復興のゼロ地点となるべく思いを込めて作られた伊藤さんの気仙沼グラウンド・ゼロ。

 

気仙沼港近辺。この近辺は、未だ潮が満ちると水没してしまう場所があります
気仙沼港近辺。この近辺は、未だ潮が満ちると水没してしまう場所があります

気仙沼と言えば、東日本大震災の代表的な遺構となっていた第18共徳丸が解体されました。先日訪れた時には、あの巨大な船の姿はどこにも見えず、ただ、それがあった場所の地面にほんの少しの痕跡が認められるだけでした。


共徳丸の保存・解体にはさまざまな議論がされてきましたが、僕はどちらが正しいのか未だ判断はできません。ただ、伊藤さんと話をしていると、人が前に進むためには、負の思い出をすべて消してから前に進む方法もあれば、起こったことを受け止め、その上で、それを礎にして前に進む方法もあるということを感じます。


気仙沼から、共徳丸が消えました。街の中は徐々に整備され、震災の記憶をよみがえらせるものは、すこしづつ減っていきます。

 

それを復興と呼ぶこともできるでしょう。しかし、人々の気持ちが追いつかないままの復興に警鐘を鳴らす人もいます。それが伊藤さんです。

 

GROUND ZERO
GROUND ZERO

あの地震から間もなく3年。もう3年。まだ3年。人によってその感覚は違うけれど、確実に迫ってきているものがあります。


今まで多くの雇用を生み出していた瓦礫処理の仕事がなくなってきました。また、いろいろな補助金の打ち切りが始まっています。これからどう生きて行けばいいのかと思う人がたくさんいます。伊藤さんは、今年あたりに、また自ら命を絶ってしまう人の数が一気に増えてしまうのではないかと危惧しています。

 

人々のこころは、必ずしも復興に向けてまっすぐに進めるわけではないようです。すなおに頑張れるのならそれでいいけれど、さまざまな理由でそれができない。中には、まだまだ気持ちの整理がついていない人も数多くいます。


伊藤さんにとって、グラウンド・ゼロが守らねばならない礎であるように、すべての人々にもグラウンド・ゼロが存在しています。

 

伊藤さんのグラウンド・ゼロは、日に日にその役割の重要性を増し、伊藤さんもそれを守り続けています。

 

プロフィール

平林克己(ひらばやし・かつみ)

カメラマン

 

東京生まれ。大学在学中より撮影を始め、卒業後に渡欧。オーストリアの首都ウィーンを拠点に、冷戦後のルーマニア、ブルガリア、チェコ、ポーランド、ユーゴスラヴィア等の東ヨーロッパ諸国を駆けまわる。その後パリに拠点を移し、20世紀末まで活動。 帰国後、外資系の商社勤務を経て、カメラマン再始動。2007年、Studio KTM設立。東京都内を中心に、商業分野での写真撮影に携わっている。


2011年3月の東日本大震災後、石巻、仙台を中心としたボランティア活動に尽力するかたわら、被災地に昇る太陽をテーマとした写真を撮り続け、写真集「陽(HARU)」(河出書房・2012年)を出版。 写真展は、震災1周年の2012年3月の東京を皮切りに、神戸、岡山、パリ、ブリュッセル、ベルリンと世界各地で開催されている。

わくわくキャッチ!
今こそ学問の話をしよう
河合塾
ポスト3.11 変わる学問
キミのミライ発見
わかる!学問 環境・バイオの最前線
学問前線
学問の達人
14歳と17歳のガイド
社会人基礎力 育成の手引き
社会人基礎力の育成と評価